ぐらり。
水平線が大きく歪んだ。これは「ぐらり」どころではなく「ぐにゃり」だ、などと頭の片隅でやけに冷静な声がする。
指先が急激に冷えていく。足がうまく動かない。腕も自分のものじゃないみたいに、小刻みに震えて、水をかけない。
寒い? いやいや、季節は八月初旬。ついさっきまで浜辺にいた体は、むしろ火照っているくらいだ。
助けを呼ぼうとしたものの、口に入った海水がそれを邪魔した。ゴボゴボと音が鳴り、周囲へ気泡が流れる。
タイミング悪くやってきた波を頭から被り、抗う力なく、重力に引っ張られた。
苦しい、という思考が追いついてこない。
目に映るものの輪郭が、何重にもなって見える。すうっとすべてが暗転した。
***
海は広いな、大きいな。
先日羽京先生に習ったばかりの童謡を合唱しながら、子ども達が駆けていく。
転ばないようにね。後ろから声をかけると元気なお返事。素直な生徒達だ。
「それにしても、海で授業なんて粋な試み。さすがはルリさんだね」
「コハクの案なんですよ」
隣を歩く巫女様がはにかむ。
「たまにはみょうじ境を変えた方が面白いって」
「リフレッシュとかじゃなくて、面白いからっていうのがコハクちゃんらしいな」
「りふれっしゅ、ですか?」
「気分転換みたいな意味だよ」
「ありがとうございます。りふれっしゅ、りふれっしゅ……覚えました」
ルリさんがほころぶように笑い、「遠くに行ったらダメですよ」と、改めて子ども達へ呼びかけた。
基本的に、学校の運営は羽京君やルリさん達、授業を受け持つ教師陣が中心となって回している。
けれど、こういった追加の引率が必要な日や、人手の足りない時は、私も積極的にメンバー入りする。いわゆる外勤講師みたいな立場だ。
今日も、午後の授業準備をして後からやってくる予定の羽京先生に頼まれ、先んじて同行したというわけだ。
「ねえ、一緒に貝探そ」
「首飾りにしたいの」
海に飛び込んだ子ども達が沖に流されないか視線を向けていると、ふいに服の裾を引かれた。
ホヌとアゲート。年は、おそらくスイカよりも少し上くらい。常に二人そろって行動している。
「ちょっと待っててね。先にみんなが勉強する場所を綺麗にするから」
「行ってきてくださいな。設営なら私一人で足りますし」
ルリさんが杠ブランドの麦わら帽子をかぶり、手を振る。
「いいの?」
「はい、そこまで手間ではないので」
「ありがとう。海は私の方も見ておくね。もし何かあったらすぐ呼んで」
このあたりは貝や漂流物が多い。黒潮に乗って、遠くの方からやってくるのかもしれない。
沖にチラチラ意識を向けつつも、十数分散策するだけで、両手に抱えきれないほどの綺麗な貝殻が集まった。子ども達も自身の成果にホクホクみたいだ。
「他に、シーグラスとかもあれば綺麗なんだけど、さすがに難易度高いかな」
「ぐらす? 千空達がつくってたガラスみたいなやつ?」
「そう! 昔はね、ガラスに色をつけて、飲み物を入れたりしてたの。そういうガラスの入れ物を『瓶』って呼ぶのね。その瓶を海に捨てると、割れて、いろんなものにぶつかって、角が取れて丸くなって、綺麗な石みたいになるの」
「しーぐらす欲しい!」
「あたしも!」
たくさん掘ったら出てくるかも、と答えると、ホヌとアゲートはそろって大きな目を輝かせた。
「でも、そろそろ羽京先生が来ると思うな。シーグラス探しは次回ね」
頭を撫でると、やや渋りつつも了承の返事が返ってくる。
「なまえ、すみません。海遊びしている子ども達に、そろそろ戻るように声をかけてもらえませんか?」
流木に布を引いて簡易的な椅子を用意しているルリさんにタイミング良く呼びかけられ、私は両手で丸を作った。
服の下にはもしもの事態に備えて水着を着込んできている。その場に服をたたみ、ざぷんと海に足を浸す。
あれ、と思ったのはその時だ。
ほんの少しの違和感。いつもよりも体がだるい気がする。そういえば喉も乾いている。
ルリさんみたいに、帽子をかぶっておけばよかった。日射病になりかけているのかもしれない。
子ども達を呼び寄せたら、水分補給して、木陰で休ませてもらおう。
午後の予定を整理しながら、子ども達を砂浜へ追い返す。最後の一人の背中を見届け、そこで。
水平線が歪んだ。
気がつくと、すっかり周囲は暗くなっていた。
研究室! 教授に欠席連絡した? と咄嗟に脳が判断し、すぐそれに該当する場所はないことを思い出す。
次に、白い砂浜、貝殻、と続いて、渦巻き状に揺らいだ海がスライドショーがごとく蘇った。
「あー! 起きた?」
「……わ、……私、日射病?」
舌が回らず、一度唾を飲み込む。
「そんなんじゃないの。とにかくゴイスーにまずかったんだって。二日近く寝てたのよ。とりあえず、千空ちゃん達呼んでくるから」
ゲン君が言った通り、すぐにやってきた千空君が、「窮地は脱したってとこだな」と、告げた。付き合いが長いとは言えない私でも察せる程度、声に安堵が含まれている。
「アンボイナ。イモガイのお仲間だ。コノトキシンぶっ刺さして、インスリンよろしく血糖値をアホほど下げる。おまけに旧現代から血清はないときた」
これな、と見せられた何かは、長さ二センチ程度、爪楊枝の先端を拡大したような形状をしていた。
「歯舌っつー毒銛だ」
「……刺されたってこと?」
「気づかなくても仕方ねえ。コノトキシンはモルヒネ様より強力な鎮痛作用があるからな」
千空君が私の足裏をとんと叩く。その箇所に刺さっていた、ということだろうか。
アンボイナが貝に似た姿をしていたのだとすれば、ちょうど浜辺を散策していた時かもしれない。
「……ごめん」
「単なる事故だ。それにアンボイナがこのあたりにいるなんて、あの羽京ですら驚いて……」
「……目覚めたか!」
千空君の言葉を遮ってやってきた人物。そのハリのある声だけで誰だかわかる。
「おー、つーわけで、応急処置やら何やら、全部龍水先生のおかげだよ」
「貴様が溺れていた時は驚いたぞ」
なんでも、事が起きたのは、龍水君とフランソワさんが、青空教室に励む子ども達へ果物を振る舞おうと、浜辺に到着した時だったらしい。
私が手足をバタつかせているところを目撃し、すぐさま救助してくれたとのこと。早急な救出劇により、飲んだ海水もわずかだったそうだ。
また、体温や顔の火照りから日射病ではないことをすぐに察し、原因を推測。患部を探し当て、歯舌を抜き、心臓側の部位を縛って、毒と一緒に血を吸い出した。
「貴様は運がいい。子ども達の話を聞いてから、羽京が湯を沸かすよう指示した。熱で大方の毒は不活性化させられたはずだ。今特に違和感はないか? であれば後遺症もないと思うが……」
「さっき試しにつねってみたの。麻痺はないと思う。……見合う方法がすぐに思いつかないんだけど、ちゃんとお礼させてね。本当にありがとう」
「礼には及ばん、俺も処置とはいえ……その、なんだ、申し訳ないことをした」
「申し訳ない……?」
意外な返事に、私は麻地の枕に埋めた首をわずかに捻る。龍水君の後ろで、何やら言いたげな顔の千空君と、含みのある表情のゲン君がやたらと印象的に映った。
海で溺れた人間は、外傷の有無を確認し、濡れた衣服で体温を下げないようにするため、すぐに服を脱がすのがセオリー。呼吸困難が見られた場合は、迅速に人工呼吸や心臓マッサージを行うのだという。
これは、食事を運んできてくれたルリさんに、後から聞いた話だ。
「体を確認したのは、龍水、フランソワの二人だけです」
やんわりフォローが入る。私はそこでようやく、煮え切らない彼の言葉を察した。
裂傷を確認するためとはいえ、裸を見たから。おそらくその時に歯舌を見つけてくれたのだろうから、私から文句だなんてとんでもないのに。
「皆、とても心配しているんですよ。今も、お見舞いに来たがる人を制限しているくらいで」
「ええ! 私の不注意でお騒がせしただけなのに……復帰したら謝らないと……」
思わずこめかみを抑えて呻く。すると、ルリさんはふいに巫女特有の凛とした面持ちを強くして、私の手を取った。
「意識がほぼない時も、うわ言のように『ごめん』を繰り返していました。体はもちろん、そういうところが何より心配なのです」
少なくともあと二日は安静にしていてくださいね、と念押して、ルリは部屋を後にした。
目を瞑ると、まだ頭の奥がぐらぐらと揺れていた。その揺れと同期して心臓が早鐘を鳴らす。
吊り橋効果というものがある。
とある場所で感じた恐怖や焦りを、恋愛の高揚と間違えてしまうあれ。
彼なら誰でも助けた。それが私ではなくても。そもそも、ルリさんが告げたように、皆へ心配をかけたのに、胸の中では一人を思っているなんて失礼にも程がある。私が本当に謝らなくてはいけないのは、この無礼についてではないだろうか。
きっとそうだ。吊り橋に片足をかけている場合じゃない。